予科練の街に9条を刻む 空襲の犠牲になった少年兵281人 平和の根っこ 茨城・土浦

かつて予科練の街だったところに憲法9条の碑を─。81年前の1945年6月10日、アメリカ軍B29爆撃機が茨城県土浦市と隣接する阿見町を攻撃し、土浦海軍航空隊予科練習生(予科練生)281人が犠牲になりました。「日本国憲法はこのような犠牲の上に成り立っている」と、憲法「9条の碑」が昨年5月、土浦市に建立されました

(遠藤寿人)

土浦市の住宅地に御影石でできた「9条の碑」が黒々と輝きます。後方には神社の社とケヤキの大木。開いた六法全書の形で右側に日本国憲法前文抜粋、左側に9条の全文を刻んでいます。

「土浦は軍都と呼ばれ、周辺には霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊(予科練)があり、多くの若者を特攻隊員として戦場に送り出しました」。裏面の「建立の趣意」には、「土浦に憲法9条の碑をつくる会」(尾池誠司会長)の人たちの戦争加担への痛恨の反省が込められています。

“念願の碑”

「9条が危ない。9条を残したい」─。高村登美子さん(85)と森泉弘子さん(79)の強い願いから碑建立の運動は始まります。高村さんと森泉さんの家は隣り合い、森泉さんは高村さんを「本当の姉」のように慕っています。

森泉さんが2021年7月、「9条の碑」の建立を呼びかけたところ、設置場所がなかなか見つからず難航。そんな中、23年10月、介護施設で生活する高村さんから、「土地を提供してもいい」との提案が。夫の高村義親さん(88)は、「土地がないことを聞いた。碑をつくるのは妻の約20年前からの念願だった」と振り返ります。

森泉さんは、「早く碑をつくって登美子さんに見せたい。実現しなきゃ」と決意。24年12月、「土浦に9条の碑をつくる会」が発足しました。25年5月3日、わずか5カ月で平和団体、女性団体、労働組合支部などから約60人が出席して除幕式が開かれました。

土浦市の隣町、阿見町にあった土浦海軍航空隊は1940年、予科練生専門の“養成場”となりました。10代前半から半ばの少年を全国から募集。予科練生の楽しみは阿見町の隣町、土浦市にでかけること。土浦は映画館や食堂、家族との面会などでにぎわいました。

「予科練空襲を記憶する土浦の会」代表の福田勝夫さん(日本共産党土浦市議、憲法九条土浦の会代表)はこう説明します。「41年、太平洋戦争が勃発すると訓練も激化した。予科練生は特攻隊の卵。教官の思い通りにならないと青竹がボロボロになるまで殴られた。一時帰宅しても成績不良で殴られたあざを見られたくなくて風呂にも入らなかったという話もある」。

空襲のあった45年6月10日は日曜日だったため、予科練生に面会で訪れる人が多かったといいます。予科練生281人と家族、教官、住民を合わせて374人が亡くなりました。

負傷者や遺体は戸板を担架代わりに、土浦海軍航空隊適性部や周辺住民により現県立土浦三高校校庭へ運ばれ、遺体は荼毘に付されました。75年6月、予科練生の追悼碑が法泉寺に建立されました。福田さんたちは毎年、命日に焼香をしてきました。

母親の後悔

犠牲者の中に、女性史研究家の米田佐代子さん(91)の兄「米田吉二」さんの名前も刻まれています。16歳でした。

米田さんは静かに語ります。「母は一生後悔していました。戦後、息子が少年兵を志願するのを止めることができず、死なせてしまった。自分の責任だと思い詰め、『自分は戦争犯罪をおかした』と手記に書きました。高市(早苗)首相は、『自分は戦後世代だから戦争の反省はしない』と豪語している。戦争でわが子を死なせたことを悲しみ抜いたひとりの母親がいたことを覚えていてほしい。戦争のない世界をつくるこれからの世代の人たちが『9条の碑』を見たら思い出してほしい」。

(「しんぶん赤旗」2026年1月1日付より転載)

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