声の群像~動燃差別是正訴訟
(1)「裁判すっぺ」 誇りかけ(2024年5月5日)
「自由にものが言える職場をつくることで、国民に奉仕できる組織とする」
勝ち目など見当もつかない10年以上も前から小松﨑賢治さんは、「裁判すっぺ」と、周囲に語っていました。
小松﨑さんは1974年に動燃(動力炉・核燃料開発事業団)に入職。2020年に退職するまでの長い時期を“雑用係”として過ごしました。
技術者に草刈り
81年ころから、研修外しの嫌がらせを受けます。ある時は、上司の勧めで受けたクレーン運転士の学科試験に合格したのに、実際に運転する実地研修を「労務の判断だ」と上司が許さず、参加できない屈辱を味わいました。
98年には人事制度を批判するビラを配ったことから配置転換を受けます。放射線量を測定する線量計の専門知識を持ち技術者として実績があるのに、与えられる仕事は、草刈り、フェンスや壁のひびの補修など。
昇格でも差別されました。同期同学歴が20年ほどで主査になるのに、小松﨑さんは入職から34年たった54歳の時。生涯賃金でも格差は3,000万円にのぼります。
この仕打ちに小松﨑さんらは05年に声をあげます。動燃が組織統合した核燃料サイクル開発機構(当時)に7人の連名で出した提案です。昇格格差の是正を求めました。
7人はこう訴えました。「私たちは、70年代半ばまでは労組執行委員や青年婦人部などで活動してきましたが、東海再処理工場の稼働を前にして数多くの不具合点を指摘し、改善を求める主張をしたころから現場の試験や作業から外されるようになりました」。小松﨑さん個人でも要望書を出しましたが、まともな回答はありませんでした。
転機は13年に訪れます。『週刊朝日』や本紙が報じた「西村資料」の存在です。
動燃の総務部次長で労務担当だった故西村成生さんの自宅で見つかったノートなどに動燃が組織的に差別していたことが記録されていました。
判決聞かぬまま
15年に小松﨑さんら4人は水戸地裁に賃金・昇格差別を受けたとして損害賠償を求め提訴(17年に2人が追加提訴)します。
原告団長の小松﨑さんは22年の本人尋問で「自由にものが言える職場をつくることで、まともに国民に奉仕できる組織とするために命をかけてたたかい抜きたい」と述べていました。
小松﨑さんは昨年7月に68歳で死去。今年3月の判決を聞くことはできませんでした。「裁判すっぺ」と言い続け、原告団の先頭に立った小松﨑さん。共にたたかった菅原薫さん(70)は「彼の技術者としての誇りが、どうしても差別を許せなかったんだろう」と語ります。
3月14日、水戸地裁は日本原子力研究開発機構(旧動燃が組織統合)が小松﨑さんら元職員への「差別的取り扱いがあったことは事実」として、計4,690万円の賠償を命じました。日本の核燃料サイクルの現場で原告らがどんな声を上げたのか、連載で迫ります。
(2)剣道教室に公安警察(2024年5月6日)
「判定」基準は職場での発言・行動・交友関係
原告団長の小松﨑賢治さん=享年(68)=は中学校、高校と剣道に打ち込みました。1974年に動燃(動力炉・核燃料開発事業団)に入ってからも8年ほど、子どもたちに剣道を教えていました。
小松﨑さんは79~80年ごろ、集会所での剣道教室で、一緒に指導している同僚のKさんから「公安警察が来ている」と告げられました。
134人を調査
そのことは、三十数年後に裏付けられることになります。動燃の総務部次長だった故西村成生さんの自宅から見つかった「西村資料」。そこにはこんな記述がありました。
「小松﨑 党員 (嫁が保母) 剣道←→K」。他にも、小松﨑さんの妻の実家の情報を記したメモもありました。
「西村資料」には、同僚で剣道仲間Kさんの名前もたびたび出てきます。その一つが「敵性判定表」です。
134人の職員名の横に、80~81年度にかけての「判定」が記されていました。Kさんは4段階のうち「A」と判定され、「日共」と記されていました。日本共産党員のことです。
「判定表」には原告6人のうち4人の名があり、いずれも「A」でした。高野真一さん(70)の判定理由には「同調者」。菅原薫さん(70)には「センスは日共or民青」とありました。
「判定表」には「凡例」もついています。「(他)はその他」「(良)は良識派」「(勝)は勝田署」「(公)は公安調査庁」「(県)は県警」とあり、そこからの情報を基にしたと記しています。
「良識派」とは、労働組合の中でも、事業者側に協力的な組合員たちのことです。
“物言う人物か”
中には「(勝) 最近△宅への出入り多し」と書かれた職員がいました。菅原さんの欄にも「(勝)6/28 北部活動者会議の出席」とありました。日常生活を勝田署の警察官が監視していたことを示します。
「西村資料」の中には「?」と書かれた警察関係者からの聞き取りメモがあります。そこには「情報交換はギブ・アンド・テイクが原則。一方的なことではない」とあります。動燃側からも公安警察に情報提供していたことがうかがえます。
故西村氏が、たびたび勝田警察署に足を運んでいたことは、妻の西村トシ子さんが裁判で証言しています。
「判定表」は正確ではありません。そして、動燃にとっても正確に「党員」や「同調者」を特定することが目的ではありません。物言う人物かどうかが重要でした。
その証拠となるのは、「判定表」でもっとも低いランクの「観」がついた職員の評価です。「観」とは、「要観察」の意味と思われます。
4段階あるランクのうち、「観」がついた職員には「改心はしている感じ」「解禁でもよい」とコメントがついていました。ここでは、「党員」かどうかは問題にされていません。真の「判定」基準は、職場内での発言や行動、交友関係だったことがわかります。
(3)被ばく不安 労組に信頼(2024年5月7日)
民間人の交友関係や、ふだんの言動を、公安警察まで動員して調べ上げる―。そして「敵」と判定した人物には、“重要”な情報に触れさせない―。動燃(動力炉・核燃料開発事業団)が職員への差別・選別で守ろうとしたものは何か。それは原子力の“安全神話”に他なりません。
トラブルを隠す
動燃は1967年に設立されました。後にあいつぐトラブルで破綻した高速増殖炉「もんじゅ」や、すでに廃炉となった新型転換炉原型炉「ふげん」、核燃料の開発や再処理を行ってきました。
原告6人が入職したのは60~70年代。日本ではじめての核燃料再処理工場が茨城県東海村につくられ、72年に予定していた稼働開始(実際には81年)の前後でした。
原告の椎名定さん(69)は「当時の動燃は『外国で完成された技術を持ってくるので、誰でもできる』と言っていた。『批判者さえ黙らせればうまくいくんだ』と考えていたと思う」といいます。
しかし、もくろみは外れ、トラブルが相次ぎます。74年には再処理工場内で下請け会社の作業員が転落する死亡事故が起きました。75年には、再処理工場の稼働に向けたウラン試験で、職員の被ばくや汚染事故が続発しました。79年9月から翌年11月までに明らかになったものでも14件ありました。
トラブル隠しも深刻でした。80年5月に高レベル放射線のもとで作業した職員が当時の「要警戒勧告レベル」の2000倍もの被ばくをしていました。科学技術庁(当時)は同年6月に動燃から報告を受けながら隠していました。「赤旗」(同年9月22日付)が、このことを報じ、ようやく明らかになりました。
原告の今井忠光さん(73)は「当局は『こういう職場なのだから被ばくは当たり前』と言ってはばからなかった。『開発で外国勢に追いつき、追い越せ』と、実際には予定からズルズルと遅れているのに当局はスケジュールにこだわっていた」と振り返ります。
原告の高野真一さん(70)も「海外から輸入した技術で、国内で積み上げたものではないから設計が練られてなかった。進めながら直すというものだった」と話します。
思い値切らない
椎名さんは「当局は、問題点をつぶしきらないままに、使用済み核燃料を使うテスト、ホット試験を急いでいた。トラブルが起きた時の後処理や職員の被ばくを考えると、合理的ではなかった。若い人が多い職場で、被ばくへの不安は強かった」といいます。
こうした中、原告らが役員などになった労働組合への信頼が集まります。今井さんは「組合員の声、思いを値切らない活動というのがモットーだった」と振り返ります。
(4)専門家も納得の要求(2024年5月8日)
「プルトニウムや再処理施設の保健問題を勉強している医師は当時、日本にはほとんどいないという状況であった。動燃東海事業所(動燃東海)でも専門の医師はおらず、そのような状態では我々は危険を伴う作業は行えないというのが動燃労組の強い主張であった」(『日本原子力学会誌』1995年7月号)
「保健問題」とは放射線被害からの防護に関する研究や応用のこと。
放射線総合医学研究所の安本正氏は77年ころを、そう振り返っていました。安本氏はIAEA(国際原子力機関)で技術専門職員として働いた専門家です。このころ、動燃東海は日本初の核燃料再処理工場の稼働へひた走っていました。
動燃労組の要求に押され、当時の科学技術庁は安本氏に動燃東海で健康管理体制をつくるよう要請。「この要請をもっともなことと考え」た安本氏は引き受けます。
安本氏が出向した77年ころ、「保健医学関係はほとんど皆無といった状態だった」という動燃東海。しかし、再処理工場ではすでに実際の使用済み核燃料を使うホット試験をしていました。
専門医がいなかった75年に5人がガンマ線被ばくしたり、職員の手などにウラン溶液が付着したりするなど、事故が多発。
国会で事故告発
「工程優先でなく安全重視の計画を」という労組の訴えは、職員たちの心をつかみました。大きなきっかけの一つは、74年に起きた下請け会社社員の転落死事故です。
原告の椎名定さん(69)は「わが事のようにみんな転落事故に怒っていた。昼休みの職場集会も参加者の熱気がすごかった」。同年12月に、動燃労組東海支部ではストライキを成功させます。
翌年の75年には動燃労組から2人が参考人として国会に招かれます。衆院科学技術振興対策委員会で、円道正三さん(当時、動燃労組中央執行委員長)は「これは労組や現場の技術者の指摘を解決しないで進めた結果起きた事故」と、告発しました。この時期、当局が287人としていた再処理工場の運転体制は、約400人に増員されるなど、運動が成果に結実していました。
村議選での対立
そして円道さんは76年に東海村議選に無所属で立候補。動燃からは円道さんと、「健全な原子力」の推進を掲げるもう1人の現職職員Aのどちらも当選します。原告の6人をはじめ組合員の多くが円道さんを応援していました。
80年にも現職2人が村議選に出ます。動燃労組の中では、Aへの支持一本化を求める側と、自由な選挙を求めて一本化に反対する側とで意見が対立。しかし、A支持に一本化されます。80年の村議選前後、原告の小松﨑賢治さんは子どもたちとの剣道教室を公安警察に監視されていました。
同じく原告の菅原薫さん(70)は、選挙の後に突如、分析業務から外されます。理由は告げられず、職場内の居室で待機を命じられます。
(5)業務外し「転向」迫る(2024年5月10日)
「○は共産党である。違うという証拠があったらいつでも言ってくれ」「近くにいれば思想信条がどうでも、同じく見られる」「仕事のできる、できないは別として、思想の白黒を色分けしているので注意しろ」
動燃(動力炉・核燃料開発事業団)では、管理職がこうした発言を会議で繰り返していました。
1970年代、職員への被ばくを軽視し、使用済み核燃料再処理工場の稼働を急ぐ動燃。他方、動燃労働組合の役員選挙で、若い職員たちの被ばくへの不安をくみ上げ、「工程優先でなく安全重視の計画を」などと訴える候補が勝ち、組合をリードしていきます。
「××派」と敵視
山形県出身の菅原薫さん(70)は72年に入職。動燃労組の青年婦人部で幹事を経験しました。75年には、国会に足を運び、動燃労組の委員長らの参考人質疑を傍聴しました。そこでは、当時の動燃理事長らが、死亡事故などについて厳しい質問を受けていました。
菅原さんは80年にあった茨城県東海村議選後のある月曜日に、いきなり業務から外されます。職場の居室内での待機を命じられて5日目の金曜日、上司との面談が設けられました。そこで、上司は「いっしょにやろう」「円道と縁を切れ」と持ちかけました。上司のいう「円道」は、動燃労組の元中央執行委員長で東海村議を1期務め、80年の村議選で落選した円道正三さんを指します。
菅原さんは「就業時間中にすべき話ではないでしょう」と抗議して、面談は終わりました。菅原さんは「“良識派”に転向させるつもりだったんだろう」といいます。
“良識派”とは、東海村議で動燃の現職職員Aの後援会にルーツをもつ職場内グループです。円道さんを支持する職員たちを「××派」と呼び敵視していました。当局が職員をA・B・Cとレッテル貼りする「敵性判定表」の情報源でした。
“冷遇”定年まで
後にみつかった「西村資料」には“良識派”の職員リストがあります。その中に、面接した上司の名前もあります。面談後、上司は菅原さんにきつく当たるようになります。ある時「東海事業所で“死の灰”漏えい」と報じた「赤旗」のスクープ記事(1982年9月22日付)を回覧で読んだ上司は「センセーショナルに扱っている」と、会議で菅原さんを意識するようにいまいましげに批判しました。
菅原さんは99年末まで、1人での分析業務しか与えられませんでした。しかも、特許を得るなど実績もあるのに、使用済み核燃料を取り扱う重要施設への行き来をさせてもらえませんでした。菅原さんだけへの異常な対応でした。
2014年の定年退職まで、菅原さんへの不当な処遇は変わりませんでした。それでも菅原さんは「“良識派”になろうと思ったことは一度もない。仲間は裏切れないし、当局のイエスマンはいやだ。間違ったことはしていない。“良識派”に頭下げるなんていやだ」。
(6)見せしめと孤独の中(2024年5月11日)
原告の今井忠光さん(73)は青森県出身。1969年に動燃(動力炉・核燃料開発事業団)に入りました。
71年ころ、核燃料のペレット(円筒形に固めたもの)を大量製造することになり、作業員の被ばくデータを集めることになりました。今井さんたちは、被ばくを減らすために、鉛入りエプロンの着用を求めますが、上司は「着用すると正確なデータがとれない」と拒否しました。
被ばく職員急増
その後、職場では被ばくする職員が急増。当時、年間で3.0ミリシーベルトを超えると原因を調べることになっていましたが、今井さんは3カ月間で4.4ミリシーベルトを被ばく。今井さんの後輩は事故でガンマ線を大量被ばくし、数年後の結婚直前に、くも膜下出血で急死しました。
74年に今井さんは動燃労組の支部執行委員となり、「組合員の思いを値切らない」と奔走します。
80年を最後に研究報告書に報告者として名前が載らなくなります。88年には、高速増殖炉「もんじゅ」で使う燃料ペレットのデータ取りまとめ担当になりましたが、簡単な仕事しか任されませんでした。周りの同僚は今井さんとの関わりをさける雰囲気でした。
そんな中、今井さんにソフトウェアの使い方を教えた協力会社の社員から「課長に『今井さんには教えるな』と言われていた」と何年も後に打ち明けられました。同期同学歴が20年ほどで主査になる中、今井さんが主査に昇格したのは入職して38年後の2007年になってからです。
「私に『成果を出させない』状況をつくり、それを理由に昇格・昇給させない見せしめをしてきた。私にとって耐えがたいもので、精神的に不安定になった時期もありました」
今井さんは39歳(1991年)の時、妻を病気で亡くします。中学2年、小学5年、3歳の娘3人を育てながら、11年の定年退職まで勤め上げました。
「一筆」と「土産」
75年に入職した高野真一さん(70)が茨城県に両親を残し、人形峠の事業所(岡山県)に異動したのは85年のことです。鳥取県との県境で山中にある職場は、冬には2メートル近く雪が積もります。
多くの職員は5年もすれば他の事業所に異動するのに、高野さんは定年退職する2014年まで29年間も人形峠に据え置かれました。「当局は、『人形峠に行かせれば、すぐに転ぶ』と思ったのだろう」と高野さん。
92年の職場の歓迎会。新しい課長は隣に座り「一緒にやろう」と話しかけてきました。課長は後日、高野さんに「一緒にやるには一筆、書いてもらわないといけない」と言ってきました。
高野さんは「一筆とは『仲間とは絶交する』という宣言だと思う。一筆だけで済まず『誰と誰が仲間』かという“土産”を要求されると聞いた。最初から断っとけば、仲間を売って苦しむこともない」。高野さんは、クロスカントリースキーをしながら射撃を競うバイアスロンの鳥取県代表として国体に出場します。スポーツが孤独を支えました。
(7)「一人じゃないんだ」(2024年5月14日)
天然ウラン鉱山があった人形峠にある動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の事業所(岡山県)。ここに移った直後は、寮にいた原告の高野真一さん(70)。労務の監視がありました。その後、鳥取県倉吉市内に借りた部屋へと移りました。「『赤旗』が読めるようになり、ここの生活に少し耐えられるようになった」といいます。
仲間からハガキ
毎年正月には、東海事業所(茨城県東海村)の先輩、関田正光さん(83)から年賀状が届きます。ハガキびっしりの言葉に「一人じゃないんだ。(仲間は)見捨ててないんだって。うれしかったなあ」。人形峠では課長が代わる度に、東海事業所の仲間との絶交を誓う「一筆」を求められ、拒み続けました。
高野さんは1度だけ、「異動願」を出したことがあります。茨城県に残した母親が肺炎になりかけた時です。しかし動燃は、高野さんの希望を却下。母親は妹たちの支えで、大事に至りませんでした。
他の事業所から異動してきた人は5年ほどで異動する中、故郷を離れ29年間も人形峠に据え置かれた高野さん。「安全のことで声を上げた人間を迫害するなんて許せない」と静かに怒りを燃やし続けました。
共働きやり抜く
「なんで娘さんをあんな男と結婚させるんですか」。結婚式当日に、こう言われたのは川上政子さん(68)の父です。暴言の主は、政子さんの夫となる川上秋雄さん(70)=原告=の上司。1980年にあった2人の結婚式の媒酌人でもありました。
72年に入職した秋雄さんは茨城県の出身です。動燃労組大洗支部の青年婦人部長として、「生理休暇をどう考えるか」などの学習会を成功させていました。
職場結婚の2人の前に不穏な動きがありました。政子さんは上司から「(秋雄さんが)どんな男か知っているのか。結婚すると一生つらい思いするよ」と言われました。
秋雄さんも媒酌人の上司から「君も結婚するのだから、これを節としておとなしくした方がいい」「あまり目立たない方がいい。労務からいろいろ情報が入ってきている」と圧力をかけられました。
式に招待した同僚へも「式に出ると、君の将来は保証しかねる」「あいつとは一線を引け」と上司が干渉。欠席者が出ました。こうした動燃からの妨害を受けた2人は、結婚式後に体調を崩しました。
「常勤職員」という雇用形態だった政子さん。当時の動燃では、結婚した女性は退職していました。「1日1時間の『育児時間』制度を初めて使った女性じゃないかな。彼女の後から使う人が出てきて制度が整った」(秋雄さん)
政子さんが育児時間を使って、昼休みに授乳のため、職場から近い自宅に帰っていました。「他の職員が昼休みから帰ってきていなくても、私が少しでも遅れるとチクチク。私をやめさせようとずっと嫌みを言われ続けた。『辞めたら負け』と思ってやめなかった」と政子さんはいいます。
政子さんには仕事が与えられず、秋雄さんに来るのは雑務ばかり。昇給昇格は据え置かれ、「給料は2人で一人前だった」(政子さん)。3人の子育てをしながら、動燃での共働きをやり抜きました。
(8)やまない「あしおと」(2024年5月15日)
「雨の日も風の日も『あしおと』を届けてくれた椎名君」「ぜひ支部執行委員になってほ『しいな』」
「あしおと」とは動燃(動力炉・核燃料開発事業団)労働組合の東海支部ニュース。1979年の労組東海支部の役員選挙で、同僚から推薦されるのは、原告の椎名定さん(69)です。73年に動燃に入職。労組の役員を歴任しました。
洗濯担当を37年
動燃の物言う職員を職場で孤立させ、見せしめにして影響力を削ぐ「ぶんまわし」や「封じ込め」といった仕打ちは、材料試験のベテラン椎名さんにも始まります。
「労組の役員選挙で椎名に投票するな」「椎名といると一緒に見られるぞ」。椎名さん不在の会議で繰り返される上司の発言。80年になると材料試験の仕事を外され、駐車場の看板書きなど課内サービスの仕事ばかりになります。83年に、放射線管理区域で着た作業服を洗う洗濯場担当となります。それも37年間、2020年に退職するまで…。
「最も屈辱だった」のは99年。資格取得の機会を久しく与えられてなかった椎名さんに、資格受講の機会がきました。上司の指示で、講習会に行く予定だった椎名さん。事業所の外に出る許可を得るため労務課に確認すると、対応が一変。「椎名に行かせるのはダメだ」と、その場で別の職員が受講することになり、手にしていた受講票を取り上げられました。
職場で孤立させられた椎名さんや原告団長の小松﨑賢治さん=享年(68)=は労組の役員選挙に何度も立候補しました。しかし、椎名さんと小松﨑さんたちに不利な選挙制度にされ、勝ち目は小さい。それでも「選挙では制限なく、言いたいことが言える機会だから」(椎名さん)。97年に作業員が多数被ばくした東海事業所(茨城県)のアスファルト固化処理施設火災爆発事故の時は、選挙に関係無くビラをつくり、配布しました。
地に落ちた神話
動燃が封じ込めようとした声。それは働く人々の良心が発したものです。公安警察も使って、良心を押しつぶそうとした動燃は95年に起きた「もんじゅナトリウム漏れ事故」など、重大事故と隠ぺいを繰り返していきます。動燃は、組織統合の末、日本原子力研究開発機構(原子力機構)となりました。
2011年の東京電力福島第1原発の爆発事故と、高速増殖炉「もんじゅ」などの破たんで原発の「安全神話」は地に落ちました。
椎名さんは「自由な発言を封じ、フィルターのかかった“知識”だけ持つ職員が“専門家”になってゆき国の原子力政策に関与していった。まともな判断ができないのは自明だった」と語ります。
動燃による組織的差別を裏付ける「西村資料」は12年に、動燃総務部次長の西村成生さん=享年(49)=の家で見つかり、13年に報じられました。西村氏は、もんじゅのナトリウム漏れ事故に対応する中、不可解な死を遂げます。原告に「資料」を貸した妻の西村トシ子さん。夫はなぜ「資料」を自宅に持ち帰ったのかー。今も原子力機構などに夫の遺品返還を求めたたかうトシ子さん。夫の声を聞き逃すまいと耳を澄ましています。
(おわり)
(「しんぶん赤旗」2024年5月5日~15日付より転載。この連載は、矢野昌弘が担当しました)