クローズアップ 茨城・ひたち海浜公園 かつては米軍演習場 母子殺傷も 花の丘 痛苦の記憶

風に揺れる花々と、響く来訪者の歓声―。
県内外から年間約200万人が訪れる茨城県ひたちなか市(1994年に勝田市と那珂湊市が合併)の「国営ひたち海浜公園」にはかつて、米軍「水戸対地射爆撃場」がありました。
海浜公園の足元に眠る射爆撃場の記憶をたどりました。

(茨城県・高橋誠一郎)

射爆撃場の前身は、旧日本軍の「水戸東飛行場」。
陸軍航空本部が住民の土地を半強制的に買収し、陸軍最大の演習場として利用しました。戦後には米軍が接収。爆弾や銃弾を撃ち込む標的が設けられ、射爆撃場として使用され始めました。
1972年7月、当時の勝田市が公表した『米軍飛行機事故調査書』には、46年5月から69年2月までの180件にのぼる米兵の事件・事故が記録されています。
爆弾落下による家財の全壊、流弾による死亡事故、米軍ヘリのドア落下、トラックによるれき死など、悲惨な死亡事故が相次ぎました。
そんな中、米軍機による最悪の母子殺傷事件が発生しました。57年8月の「ゴードン事件」です。

■ゴードン事件

「超低空車輪ではねる 自転車の母子死傷 首と胴真っ二つ」――。
地元紙『いはらき』(57年8月3日付)は、那珂湊市(当時)で発生した米軍機による母子殺傷事件を報じました。

「ゴードン事件」を報じる地元紙「いはらき」(1957年8月3日付)

「ゴードン事件」を報じる地元紙「いはらき」(現・茨城新聞=1957年8月3日付)


8月2日午後2時半ごろ、ジョン・L・ゴードン中尉が操縦する米軍プロペラ機が、自転車で通行していた母子を超低空飛行で襲いました。
地元紙は母(当時64)が「バラバラになり即死」、息子(当時24)は「ひん死の重傷」と報じ、「イモ畑を鮮血にそめて飛散、凄惨眼をおおうものがあ」ると伝えています。
しかし米側は中尉の飛行が「公務中の行為」だと主張。
日本は裁判権を放棄し、中尉は不起訴となりました。
「公務」であれば裁判権が米側に移るとした当時の「日米行政協定」があったためです。
「かんかん照りの畑に真っ白い臀部が見えた。葉っぱに血がいっぱい付いていたのを覚えている」。
現場を目撃した当時小学1年生の男性(70)=ひたちなか市=は当時を振り返ります。
実家のサツマイモ畑が現場になりました。
「離陸してすぐの所。母子がアベックに見えて驚かせようとしたが高度を下げ過ぎたのではないか。米兵は住民をからかうようなところがあった」と語ります。
沖縄で続く米兵の横暴がここでもまかり通っていました。
この男性は言います。「行政協定は、戦後75年たつ今でも地位協定として残っている。見直さないといけない」―。
ひたちなか市の辻井英雄さん(73)も現場を目撃した一人。
「海水浴から上がってみると、みんなバタバタと駆けていた。赤いふんどし姿のままついて行くと、おとなが火箸で肉片を拾ってバケツに入れていた」。当時の状況は忘れられない、と振り返ります。
「ゴードン事件」の現場を示す辻井さん。サツマイモ畑が当時と変わらず広がっている

「ゴードン事件」の現場を示す辻井さん。サツマイモ畑が当時と変わらず広がっている=7月20日、ひたちなか市

■平和利用求め

事件・事故が多発し、県内では射爆撃場の返還運動が急速に拡大。署名や県民大会、国への陳情など、県ぐるみの激しいたたかいが重ねられ、73年3月、日本政府に返還されました。那珂湊市には遅すぎる「終戦」でした。
その後、地元から返還地の平和利用を求める声が上がり、海浜公園に。
射爆撃場の標的跡地は「みはらしの丘」になり、春にはネモフィラが青一色に染め上げます。
「公園を訪れる人はここがかつて射爆場だったなんて分からないと思う」と辻井さん。足元には痛苦の記憶が眠っています。
(「しんぶん赤旗」2020年7月30日付より転載)

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